「愛」は世界を壊す?それとも救う? 〜「いのちの言葉」〜

「ライフデザイン」科

偉大な先人達から学ぶ「いのちの言葉」

このコーナーについては「こちら」からどうぞ。

 

【新コーナー】偉大な先人達から学ぶ「いのちの言葉」 〜「情熱が持てない」というあなたへ 〜
「人の身体は、食べたものでできている」 とよく言われます。 間違いとは言いません。 でも僕は、これには100%同意できない。 「人はパンのみにて生くる者にあらず。 神の口から出る一つ一つの言...

 

さて、今回あなたにお伝えしたい「いのちの言葉」はこちらです。

 

愛ゆえに、人は苦しまなければならぬ

愛ゆえに、人は悲しまなければならぬ!!

(聖帝サウザー)

 

漫画『北斗の拳』のファンならば、最早DNAに刻み付けられていてもおかしくないこの言葉(笑)

 

サウザーは、南斗鳳凰拳の伝承の試練で、父親のように敬愛していた師匠を殺してしまいます。

(鳳凰拳の伝承のためには師を倒す事が必要なため。もちろんその事はサウザーには隠されていた)

その時の悲しさ、苦しさがこの言葉の根本にあるものです。

 

そんなサウザーと戦い、勝利したケンシロウ。

サウザーは今際の際に、彼に問います。

 

愛や情は哀しみしか生まぬ…

なのになぜ、哀しみを背負おうとする

なぜ苦しみを背負おうとする

(聖帝サウザー)

 

彼のその問いに対し、ケンシロウはこう答えます。

 

哀しみや苦しみだけではない。

おまえも、ぬくもりをおぼえているはずだ。

(ケンシロウ)

 

その言葉で、サウザーは師匠との過去の温かい思い出を思い出し、笑顔で死んでいくのです。

 

さて、ここで二人の口から出ている「愛」というもの。

同じ「愛」なのに、サウザーは愛を苦しみを生むものと認識し、ケンシロウは「温もりを与えてくれるもの」と認識している。

同じ「愛」という言葉を、「違う意味」で捉えている訳です。

 

 

「愛」は世界を救う?

そもそも「愛」とは何なのか?

そう問われてきちんと答えられる人はどれだけいるのでしょうか?

 

先日も、あるクライアントさんが

「当社は”愛”を育てます」

と言っていたので

「”愛を育てる”って具体的にどういう事ですか?」

と質問したら何も答えられなかったという出来事がありました。

 

そのクライアントさんの名誉のために言っておきますが、彼はとても真面目に社員とお客様の幸せを考えて、行動している素晴らしい経営者です。

そんな彼でも、「愛」が何なのかを答えられない。

「愛」は、多くの人が使っている言葉ですが、実はその意味は非常に捉えにくいものだと個人的には思うのです。

 

例えば、仏教においては「愛」というものは「愛欲」や「愛執」のような悪い意味として使用される事が多い言葉です。

例えば『ダンマパダ』には

 

愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。

愛情を離れたならば憂いが存在しない。

どうして恐れることがあろうか?

 

(『ブッダの真理のことば 感興のことば』より抜粋)

 

と記されています。

 

「愛」によって「執着」が生まれ、その「執着」によって「苦しみ」が生まれる。

だから「愛」に縛られないようにしましょうね。

という風に仏教では「愛」というものを説明している訳です。

 

ただ仏教では「慈悲」という言葉もあります。

これは上述の「愛」とは違い「人を救う」という「利他」の意味であり、仏教では望ましいものとされています。

つまり「愛」は「利己心」つまり「我欲」によるものであり、「慈悲」は「利他心」つまり「他者への思い遣り」によるものだという事です。

 

そしてキリスト教においては「愛」は「アガペー」という「無償の、不変の愛」とされており、有名な

 

あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい

(レビ記19-18より抜粋)

 

にもあるように「自分のように他人も大切にする事」の重要性を伝えています。

 

つまり、サウザーは「愛」を仏教の「愛欲」の意味で捉えており、そしてケンシロウは「愛」を「慈悲」や「アガペー」の意味で捉えていた、僕にはそう感じるのです。

 

「愛は世界を救う」と言う人もいますが、それはまさに「慈悲」や「アガペー」によるものであり、間違えても「愛欲」によるものではないはずです。

しかし、その辺りが混同している人が少なくないようです。

 

 

あなたの「愛」はどちらなのか?

色々な人のお話を聞いていると、こんな風に言う人が少なくありません。

 

「子どものために頑張る」

「親のために頑張る」

「お客様のために頑張る」

・・・

 

どうでしょうか?

この言葉だけを聞くと、素晴らしいものに聞こえるかもしれません。

この言葉を使っている人は、愛情の深い人のように感じるかもしれません。

 

しかし、実際には上述した「別の意味の愛」の意味で使っている人が少なくありません。

どういう事かと言いますと

 

「(親だから仕方なく)子どものために頑張る」

「(子どもだから仕方なく)親のために頑張る」

「(売上のために仕方なく)お客様のために頑張る」

 

という風になっている人が少なくない、という事です。

 

こういう人は「相手のため」と言いながらも、相手の事を見ず、自分の事ばかりを見て「相手から奪う」という言動をしがちです。

例えば

 

「あなたのため」と言って子供や親や部下に自分の価値観を押し付ける親や子や上司

「子供や親のため」と言って自分の気持ちを押し殺し、その結果家族関係が悪化してしまう家庭

 

などは「愛」を勘違いした典型的な例でしょう。

 

勘違いした「愛」で生きると、与えるより奪う事が多くなります。

勘違いした「愛」で生きると、他者と比較し、自分や他者を責める事が多くなります。

勘違いした「愛」で生きると、自分の心の中に喜びよりも恐れや苦しみの感情が大きくなります。

 

逆に

 

本来の「愛」で生きると、奪うより与える事が多くなります。

本来の「愛」で生きると、他者と比較せず、自分や他者を認め、勇気づけ、応援する事が多くなります。

本来の「愛」で生きると、自分の心の中に恐れや苦しみよりも喜びの感情が大きくなります。

 

いかがでしょうか?

「愛」とひとことで言ってみても、その根っこには色々な意味がある訳です。

 

サウザーは愛によって苦しみ、そして多くの人を傷つけました。

ケンシロウは愛によって救われ、そして多くの人を救いました。

 

あなたは、どちらの「愛」で生きているでしょうか?

どちらの「愛」を大切にしているでしょうか?

 

良ければ一度、考えてみてください。

 

あなたの人生が、愛に溢れた、素晴らしいものになりますように。

 

 

阿部 龍太

 

 

 

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