今日は1月2日。
2018年になりましたね。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
という訳で今日は、前回の記事でお伝えした
ここでお伝えし切れてなかった「3つ目の法則」について、お伝えしようと思います。
前回の続きものという、2018年第一弾の記事としては何となく力が入ってないというか、真剣味に欠けるというか、肩の力というか肩の骨が抜けたような脱力感を感じられるかもしれませんが、これが僕なのです(笑)
こんな僕ですが、本年もお付き合いいただければ嬉しいです。
法則3:「当たり前」という勘違い
今まで、色々な分野で、色々な人の、色々な相談を伺ってきました。
システムや電子機器のヘルプデスク
進学や就職、転職といったキャリアカウンセリング
商売における売上のアップや人材育成
家族関係や恋愛の相談
・・・
色々な分野でこれまで、3700人以上の人の話を伺ってきましたが、悩みや問題が解決しない人のほぼ100%は多かれ少なかれこの勘違いをしています。
「当たり前」という意識
これが多ければ多い程、人生で損をする確率が高まるという訳です。
有名な話なので、あなたも既にご存知かもしれませんが
「ありがたい」
という言葉は
「有難い」
と書きますが、この反対の意味を持つ言葉が
「当たり前」
という意味なのだそうです。
人間の身を受ける事は難しい。
死すべき人々に寿命があるのも難しい。
正しい教えを聞くのも難しい。
もろもろの御仏の出現したもうことも難しい。
『ブッダの真理のことば 感興のことば(岩波文庫)』より抜粋
と仏陀が言っていますが、これを凄く乱暴に訳すと
人間として生まれるなんてなかなか無い、凄い事なんだよ(だから、当たり前じゃない、有難い事なんだよね)
まだ生きてるなんてなかなか無い、凄い事なんだよ(だから、当たり前じゃない、有難い事なんだよね)
正しい教えを聞けるなんてなかなか無い、凄い事なんだよ(だから、当たり前じゃない、有難い事なんだよね)
仏の存在があるなんてなかなか無い、凄い事なんだよ(だから、当たり前じゃない、有難い事なんだよね)
となる訳です。
そして、これは仏教に限った話ではありません。
日本画の大家が気付いた「当たり前」
「東山魁夷」という著名な日本画家がいます。
彼は若かりし頃、画家としてあまり評価されていなかったそうです。
周りの友人はどんどん評価を得ていくのに、自分だけ取り残されている。
そんな時、彼に召集令状が届きます。
1945年、終戦直前の事です。
招集されてすぐ、彼は熊本に送られ、爆弾を持って戦車に突っ込む部隊へと配属されます。
これが何を意味するのか、分かりますよね?
そんなある日の事です。
部隊の訓練が続く中、彼は熊本市街の焼け跡の整理に行きました。
熊本城の天守閣跡へ登ったその帰り道。
彼はある事に気付きます。
その時の彼の気持ちを、彼の著作から引用します。
熊本城からの眺めは、肥後平野や丘陵の彼方に、遠く阿蘇が霞む広闊な眺望である。
雄大な風景ではあるが、いつも旅をしていた私には、特に珍しい眺めというわけではない。
なぜ、今日、私は涙が落ちそうになるほど感動したのだろう。
なぜ、あんなにも空が遠く澄んで、連なる山並みが落ちついた威厳に充ち、平野の緑は生き生きと輝き、森の樹々が充実した、たたずまいを示したのだろう。
今まで旅から旅をしてきたのに、こんなにも美しい風景を見たであろうか。おそらく、平凡な風景として見過してきたのにちがいない。
これをなぜ描かなかったのだろうか。
いまはもう絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったと云うのに——歓喜と悔恨がこみ上げてきた。
『風景との対話』より抜粋
彼は、それまで自分が当たり前のように観ていたものが、実は「当たり前ではなかった」という事に気付いた訳です。
彼はこうも言っています。
あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも、生きる望みも無くなったからである。
私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。
死を身近に、はっきりと意識する時に、生の姿が強く心に映ったのにちがいない。
『風景との対話』より抜粋
「当たり前」という気持ちがあるという事は「心が純粋ではない」という事。
目の前の「生の姿」を意識できていないという事。
「死」を意識し「生」を意識する。
ある種の「memento mori」の境地。
それがあるからこそ「当たり前」というある種の「執着」から解き放たれる。
彼が教えてくれている事は、絵画に関係あろうがなかろうが、全ての人が知っておくべきだと個人的には思うのです。
機会があれば是非一度、彼の絵を観てみてください。
絵の事を全く知らない僕ですら感動する程ですから。
ふたりが教えてくれる「この世界の真実」
仏陀も、東山魁夷も、
この世界に「当たり前」なんてものはないんだ。
この世界は「有難い」ものでできているんだ。
という事を我々に教えてくれています。
でも、なかなかそれを心から理解する事は難しいでしょう。
だから最初は理解できなくても仕方ないと思います。
ただ、こういう「当たり前の意識」が強いと、とある副産物がもれなく付いてくる事は理解して欲しい。
それは
「不安・悲しみ・怒り」
というものです。
「それがあって当然」だと思っている
↓ ↓ ↓
何かが起こってそれが手に入らなくなる(もしくは、手に入らなくなると思い込む)と、不安や悲しみや怒りを感じてしまう
という訳です。
「執着」
というやつですね。
「モンスター●●」と呼ばれる人種がこの世界には存在していますが、彼らはまさにこの
「不安・悲しみ・怒り」
という感情が、そしてその根底には
「当たり前という勘違い」
というものが、心の奥底で強く蠢いているように個人的には思うのです(まあ、余計なお世話でしょうけど)
もちろん、そういうモンスター的な人生(“人”生って言っていいのかちょっと迷うけど)が楽しいのであれば、その生を生きていけばいいと思うけど、僕個人にとってはそうは思えない。
だから僕は、
「この勘違いからの卒業」
を提案している訳です。
ガンコなおじいちゃんの文句(笑)
スマホを見れば色々な情報を得られるのが当たり前。
コンビニが24時間空いているのが当たり前。
蛇口をひねれば水が出るのが当たり前。
スイッチを入れれば電気がつくのが当たり前。
家族や友人がいるのが当たり前。
妻や夫や子供が、無事に家に帰ってくるのが当たり前。
寝たら、目が覚めるのが当たり前。
・・・
年始なのに、書いてて何だか世も末のような気がします(笑)が、何かが存在している事は、当たり前ではありません。
あくまでも個人的な偏った意見ですが、僕にはそう感じられるのです。
あなたの周りを見回してみてください。
例えば、あなたがしている仕事は、あなた一人で成り立つものですか?
誰かが何かをしてくれているから、成り立つものではないですか?
あなたが身につけたり使っているもの、食べたり呑んだりしているもの、全てはあなた以外の誰か(何か)が提供してくれているものではないでしょうか?
って何だか、ガンコなおじいちゃんの文句みたいですけど(苦笑)、別に「世の中の全ての感謝しろ」という事を言いたい訳ではありません。
「感謝しなければいけない」っていう表現がもう個人的には論理的に破綻している訳で、そういうのはどうでもいいんです。
ただ、この世界のあらゆるものは「当たり前ではない」という事をほんの少しでも理解できたら、今までとは何か違った感情を感じられないでしょうか?
自分がいかに無知で未熟で矮小で、自分ひとりではたいした事は何もできない「か弱い存在」なのかを、ほんの少しでも理解できたら、今までとは何か違った感情を感じられないでしょうか?
そうしたら、今までとは何か違った行動を、そして今までとは何か違った変化を実現できないでしょうか?
人生、何か変わらないでしょうか?
少しでも楽しくならないでしょうか?
僕があなたに伝えたいのは、そういう事なのです。
という訳で、以上が
「人生で損をする絶対法則」の3つ目
というものでした。
僕やあなたは、有り得ないくらい多くのものを与えられている訳です。
その「事実」に気付けない、つまり「当たり前」だと思ってしまう。
それって、自分で自分の人生から驚きや発見を失くしてしまい、自分で自分の人生をつまらなくしてしまっているように思うのです。
そういうのってなんだか、モッタイナイと思いませんか?
と、いう事は…?
さて、前回と今回で
「人生で損をする絶対法則」
についてお伝えしてきた訳ですが、ここまで読んでくれたあなたはもうお気づきですよね?
これらの法則を逆手に取る事で、逆にこれらが
「人生で得をする絶対法則」
になり得るという事に。
法則1.「他人の目」を気にして生きる
法則2.「過去」に縛られ、「未来」に縛られる
法則3.世界を「当たり前」だと勘違いする
是非この逆の生き方をしてみてください。
あなたなりの方法で。
2018年、あなたの飛躍を愉しみにしています。
共に面白い人生を歩みましょうね。
本年もどうぞよろしくお願いします。
阿部 龍太
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