前回の記事で、
動けなかったり、行動出来ないのには、能力や気持ちの問題ではなく、別に理由がある。
その理由とは「無知」だから。
「知らない事が出来ない」というのは当然の事であり、やる気や能力など何の関係も無い。
という話をしました。
【参考記事】
この
「知らないんだから、出来る訳が無い」
という、ある種居直りにも似た発想(笑)ですが、この事を伝えると
「知らないから出来ないなんて、言い訳だ」
とか
「知らないなんて情けない。恥ずかしい」
というように
「知らない(出来ない)事=悪」
と捉えがちな人が少なくないようです。
しかも、真面目な人ほど、その傾向が強い。
・・・
そう思う気持ちは分かります。
僕もそうでしたから。
でも、敢えて言います。
これこそ「無知(=バカ)」の証です。
養老孟司さん風に言えば
「バカの落とし穴」
に嵌っている、とでも言いましょうか。
今日はこの事について考えてみましょう。
「無知(=バカ)」の為せる業
「知らない(出来ない)事=悪」という考え方が、なぜ「無知の証」であり、そして「バカの落とし穴」に嵌っていると言えるのか?
それは
「知らない(出来ない)事=悪」
という固定概念しか無い。
つまり、それ以外の可能性を知らないし、知ろうとしない。
からです。
もう少し言うのであれば、
物事の「一側面」しか見ていないのに、それだけで「全て」を理解したと勘違いしている。
という事です。
心理学の世界では、これは
「一般化」
と呼ばれるもので、これにハマるともう
「猫もビックリ!バカまっしぐら」
になってしまうという恐ろしいものです。
だって、おかしくないですか?
そもそも、なぜ
「知らない(出来ない)事=悪」
と言い切れるのでしょうか?
赤ちゃんが喋れないのはダメな事ですか?
逆上がりが出来なかったり、テストの点が悪い子供はダメ人間ですか?
レベル1の勇者(byドラゴンクエスト)に存在意義は無いですか?
・・・
どうでしょうか?
違いますよね?
「無知」が持つ、本当の意味
「無知」という事、則ち「知らない(出来ない)事」には、他の側面がある、という話をしましたが、それが
「知らない(出来ない)事」は、何も悪い事ではない。
それは新たな可能性を開くための第一歩である。
というものである、これが僕の持論です。
何かを知らない、何かが出来ない、という事はつまり
何かを知れたら、何かが出来るようになったら、大きな喜びを与えてくれる
と言える訳です。
(もちろん、能動的に取り組むという事が大前提ですが)
例えば、逆上がりができない、でもできるようになりたい、そんな子供が、逆上がりを出来るようになったら?
嬉しいですよね?
知らない、できない、そんな状態から新たな事を知る事が出来た、新たな事が出来るようになった。
最高じゃないですか?
無知って、バカって、最高じゃないですか?
「知らない(出来ない)事」が「最高」な理由
という話をすると、
「じゃあやっぱり、知る事が出来なければ、出来るようにならなければ、意味が無いのではないか」
という、つまり
「知らない(出来ない)=悪」
に結びつける意地悪(笑)をいう人がいるのですが、残念ながらこれもまた無知(=バカ)の証であり「バカの落とし穴」に嵌っています。
「失敗は成功の母」
という言葉にも現れているように、何かを知る事ができなくても、何かが出来るようにならなくても、その経験は、また違うきっかけを与えてくれるものです。
例えば、一所懸命練習してもプロ野球選手になれなかった、
もしくはプロ野球選手になれたけど怪我等で引退せざるを得なくなってしまった。
そんな状況だったとしても、その経験を活かした他の事、例えばコーチとかトレーナーとか、スカウトとか解説者とか出来ますよね?
野球選手としてはダメになったかもしれないけれど、だからこそ
「自分の新たな可能性」
が生まれるきっかけになる訳です。
ね?やっぱり最高じゃないですか?
無知って、バカって、最高じゃないですか?
偉大な選手ですら嵌ってしまう「バカの落とし穴」
でも、「その時」の失敗に縛られてしまい、それ以降の時間軸、すなわち「人生」という広い視野で観られない人は、そういった
「自分の新たな可能性」
に気づけません。
上の例で言えば「野球選手として」失敗してしまったとしても、その後の「人生」という広い視野で観れば、新たな可能性もあるのに、そういう可能性が観られず、前に進めなくなるという事です。
野球繋がりで例を出すのであれば、元プロ野球選手の清原和博さん。
ご存知のように彼は覚醒剤に手を出してしまった訳ですが、その一因として彼は
「現役引退後の不安」
というものがあったとインタビューで語っています。
「野球選手ではない清原和博に価値など無い」
そんな「無知から来る勘違い」が彼の心にあった。
失礼ながら彼ほどの実績のある選手ですら「自分自身の可能性」というものに対して「無知」だったという訳です。
価値が無いなんて、そんな訳無いのに。
でも本人が、自分自身の可能性を閉ざしてしまっていたのです。
本来、何かを知らない、何かが出来ない、という事は、
知る事が出来ても、できなくても
出来るようになっても、ならなくても
どちらに転んでも、可能性を提供してくれるもの。
そういう意味で僕は常に
「この世には可能性しか無い。だからバカでいい」
と信じているし、クライアントさんには
「バカが大いなる可能性の源である。だからバカは最高だ。だからバカから始めよう」
と伝えているのです。
もちろん可能性を開く事が出来るのは
「本人が諦めさえしなければ」
の話ですけどね。
あなたも、わたしも、あの人も。
あなたは無知です。
ぶっちゃけてしまえば、あなたはバカです。
でもそれは、あなただけではありません。
僕も、そしてあの人も、その人も、
全ての人は、多かれ少なかれ無知、多かれ少なかれバカなのです。
だからまず、自分の無知を、自分のバカさ認めてください。
そんな自分の無知、自分のバカさを責めずに、そんな自分をただ認める。
そして、その上で、自分がどうするかを決める。
僕はこれを
「適切な絶望」
と呼んでいます。
もし今、あなたが何かに悩んでいるのであれば、この
「適切な絶望」
それが今、あなたがすべき第一歩なのかもしれません。
阿部 龍太
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