「他人が作ったあやふやな善悪」
というものに無理矢理合わせてしまい、結果苦しい思いをするのは本末転倒ではないのか?
という話をしました。
【参考記事】
「善と悪」に分けて物事を考える。それは「他者の価値観」に自分自身を委ね、縛りつけ、苦しむ事になります。
仏陀が入滅、すなわち死に至る際に
この世で自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
(「大パリニッバーナ経」より抜粋)
と弟子達に伝えたそうです。
他人ではなく自らをよりどころとし、法をよりどころとする。
つまり
「自分で決めた、自分自身の価値観に沿って生きていきましょう」
と言っている訳です。
(余談ですが、仏陀は自分の教えが絶対だと言ってはいませんでした。だからこそ「自らを頼りにする」という表現が先になっているのだと個人的には考えます)
これができないと苦しんでしまう事になる。
それは前回お伝えした通りです。
今回は「善と悪」に縛られる事でもたらされるもうひとつの問題
2.人間関係の破綻
について、お伝えしようと思います。
「善と悪」が人を傷つける理由
なぜ、物事を「善悪」で判断する事で、人間関係の破綻につながってしまうのか?
それは
「善悪」の判断によって、関係性を「上下」や「優劣」に変換してしまう。
からです。
「善」が「上」で、「悪」が「下」
「善」が「優」で、「悪」が「劣」
このように物事や人を判断する事で、関係性に「溝」が生まれます。
冷静に考えてみてほしいのですが
「私は正しい。だから私は善だ。
そしてあなたは間違っている。だからあなたは悪だ」
と言われて喜ぶ人は、余程のドMでない限り、なかなかいないでしょう。
「正論では人は動かない」
とよく言われますし、僕自身もそれは一理はあると感じていますが、それはこの「善悪による溝」が生まれてしまう点に原因のひとつがあると思うのです。
この考え方が行き着く先。
それは「善悪による溝」が最早越えられないレベルに達してしまった
「善悪による関係性の断絶」
であり、そしてそれは人間の尊厳を失う思想と行為につながります。
「善悪」が人を殺す
ナチスドイツ
旧ユーゴスラビア内戦
ルワンダ内戦
ISによるテロ
・・・
民族や宗教(表面的なものも含む)による争いには、この「善と悪による関係性の断絶」によって起こるものが少なくありません。
自分たちは正しい。
自分たちは優れている。
そう思う事、そのものに問題がある訳ではありません。
それで自分に誇りを持って豊かな人生を築く事が出来ればそれでもいいでしょう。
しかし、それによって
あなた達は間違っている。
あなた達は劣っている。
という思いが生まれてしまうのであれば話は別です。
旧ユーゴスラビア内戦では、この「関係性の断絶」によって、それまで民族や宗教の違いを受け容れて共に生きてきた人達が殺し合うという恐ろしい事態になりました。
共に学び、共に働き、共に笑い、共に泣いていた隣人達と殺し合う。
日本で言えば、突然各県同士で戦争が始まる、みたいなものです。
一部の権力者達のプロパガンダによって「善悪」「優劣」の意識を強められてしまった事により、関係性が断絶されてしまった。
それにより、約3年で20万人を越える人が命を失い、300万人を越える人が難民となった。
(詳しくはここでは書きません。是非ご自身でほんの少しでいい、情報を調べてみてください)
このように、「善悪」が「優劣」につながり、それが進んでしまうと、人はそれこそ悪魔のようになってしまうのです。
ふたりの漢(おとこ)が見せてくれた「黄金の法則」
では、我々はどうすればいいのでしょうか?
この問いに対するヒントを与えてくれる出来事がありました。
2017年、アメリカ、メジャーリーグのワールドシリーズ第3戦。
ダルビッシュ選手からホームランを打ったユリエスキ・グリエル選手が、アジア人に対する差別的行為と取れるジェスチャーを行ったそうです。
それに対してダルビッシュ選手は
「自分は客観的に見ると、アジアの人だけじゃなくて、色んな人種の人に対して区別するようなことをするというのは、やっぱりよくないことだとはもちろん思う」
とインタビューに答えつつ、Twitterにこんな声明をアップしました。
完璧な人間なんていない。
あなたも私も、皆、それは同じだ。
今日彼が行ったことは正しい事ではない。
しかし私たちは彼を断罪するよりも、学ぶ努力をすべきだと思う。
もしここから何かを得ることができれば、それは人類にとって大きな一歩だ。
この素晴らしき世界に住んでいるのだから、怒りに目を向けるのではなく、前向きに進もう。
皆さんの大いなる愛を信じている。
(ダルビッシュ選手のtwitterを和訳)
誰もが完璧な人間ではない。
つまり全ての人間には未熟な部分が、バカな部分がある。
だから、責めるより学ぼうよ。
そして、皆で幸せになろうよ。
そう彼は、僕たちに教えてくれています。
1.自分の未熟さ、バカさを認める。
2.1を赦す。
3.1から学べる事をきちんと考え、自分が進むべき道を設定する
4.3で設定した道を歩む(具体的な行動をする)
5.修正すべきポイントが出たら1に戻る
認め、許し、学び、実行する(そして修正しながら実行し続ける)
という「黄金の法則(ゴールデン・ルール)」です。
そしてこれは、ダルビッシュ選手だけではありません。
2015年の4月に、あるテレビ番組で、コメンテーターの張本勲氏が、J2リーグでプレイしている三浦知良選手(尊敬の念を込めてカズさんと呼ばせていただきます)に対して
「(J2は)野球で言えば2軍のようなもの。もうお辞めなさい」
(張本氏の発言より)
という発言をしたそうです。
この発言に対して多くの方が怒りを感じていた中、当人のカズさんは
『もっと活躍しろ』って言われているんだなと思う。
『これなら引退しなくていいって、オレに言わせてみろ』ってことだと思う。
長島さんが引退して、張本さんが巨人にきた。たしか背番号は10。王さんと組んで活躍したことは今でも覚えているし、憧れていた。そんな方に言われて光栄です。
激励だと思って、これからも頑張ります。
(カズさんのインタビュー記事より抜粋)
と言ったそうです。
J2にいるという事実を認めた上で、張本さんの発言から何を学べるか、自分はどうすべきかを考え、それを実行に移した。
そんな人だからこそ、50歳になっても多くの人に愛され、現役を続けられるのではないでしょうか。
どんな人であれ、未熟さはあります。
どんな人でも、バカな部分はあります。
ならば、どうするのか?
認めず、責めるのか?
認めて、許し、学ぶのか?
我々人類が彼らから学べる事は、非常に大きなものだと個人的に思うのです。
「悪」と「善」の「本当の姿」
そもそも善と悪は、対立するものではない。
そうではなく、善と悪は同一のものである。
という事を思想家のマルティン・ブーバーが言っています。
つまり、
「悪」とは「善」の最も未熟な状態
であり、そして
「善」とは「悪」が最も成熟した状態
を言うのだという事です。
これは「般若心経」で言われている
色不異空
空不異色
色即是空
空即是色
受想行識亦復如是
(般若心経より抜粋)
ともつながる考え方です。
善と悪という完全に分けられたものは無い。
どちらの要素も人間がより豊かになる道にも、より苦しくなる道にも、どちらの道にもつながるものだ。
そういう意味で「善と悪」は同じものである。
仏陀もブーバーも、カズさんもダルビッシュ選手も、ナチスドイツや旧ユーゴやルワンダの権力者達やそれに群がった人達も、ISのテロリスト達も、やっている事は全くの別ものでありながら、同じ事を僕たちに伝えている。
何を考え、何をすれば人が傷つくのか。
そして何を考え、何をすれば人が喜ぶのか。
それを示してくれている。
あくまでも個人的な見地ですが、そう感じています。
だから、自分や他者の未熟さや無能やバカさを責めたりする必要はありません。
きちんと認識し、それを認めて赦し、分析し、前に進めばいいのです。
未熟さや無能やバカさによって誰かに迷惑をかけてしまったのであれば、真摯に関係者に謝る。
そして少しでも前に進む。
責めたり嘆いたりする事よりも、それが迷惑をかけてしまった人への一番の恩返しではないでしょうか?
自分や他者を責めたくなる気持ちは分かります。
その「気持ちそのもの」の否定はしません。
僕だってそういう気持ちを持つ時はあります。
その気持ちそのものを捨てろと言うつもりはありません。
ただ、その「気持ち」を表に出す、すなわち言葉や行動に出す際に、出来れば考えてみて欲しいのです。
責めて、少しでも状況が望ましいものになるのか?
それがあなたにとっての幸せなのか?
それがあなたにとっての喜びなのか?
一度、考えてみて欲しいのです。
自分が勝手に設定した「善悪」という枠組みによって、他人や自分自身を縛り付け、苦しめているのであればそれは少し、いや非常に、モッタイナイ事ではないでしょうか?
ナチスや、旧ユーゴスラビアや、ルワンダの一部の権力者達のように。
どうせなら、自分や他人を傷つけるのではなく、幸せにする「善悪」を持ってみてはいかがでしょうか?
仏陀や、カズさんや、ダルビッシュ選手のように。
あなたを縛っている「善悪」から、少しずつでいい、あなた自身を解放してください。
人生が大きく、大きく変わりますから。
阿部 龍太
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